「木曽福島?」と聞き返した。はて木曽に福島があったのか。分からなかった。早速調べると、御嶽山の近くらしい。長野県木曽郡にあり木曽福島町となっている。もともと福島村だったそうだ。何故、福島村というのかは判明しなかった。いずれにせよ、中央線の木曽福島駅辺りだ。そこへ行くには新宿から“あずさ”に乗って塩尻へ行き、そこで乗り換えて木曽福島駅という道筋と、新幹線で東京から名古屋へ、名古屋で“しなの”に乗り換えて木曽福島駅という行き方がある。名古屋経由のほうが10分ほど早いが値段は少し高めだ。今回は名古屋経由で行くこととした。1月の終わりごろだっただろうか。
ところで、なぜ木曽福島へ行くのかと言うと、漆作家の手塚さんに会うためなのだ。手塚さんはそれこそ酉福開業ごろにお付き合いがあった作家だが、2回ほど個展を開催したあと、事情があり、お付き合いが無くなっていた。それから10数年の時がたち、そういった事情も消え去り、去年の年の瀬のころ、ふとしたことで彼のことを思い出し電話を入れてみた。「青山です、お久しぶりです、お元気ですか」、と話し始めると「あ、懐かしいですね、久しぶりです」と覚えてくれていた。「一度おじゃましたいのですが」、「どうぞ、今工房は木曽福島に在ります」とのことだった。以前、彼の工房兼自宅のある楢川村を何度か訪問したことがあった。漆作家は各地にいるが、どうも加飾が過ぎたものが多く、自分の好みとは少し違うものだった。手塚さんの漆はその加飾がなく、本当に塗師の仕事が中心で前から好感を持っていた作家の一人だったのだ。
で、名古屋から特急にのり、中央本線を行くと、瀬戸の長江重和さんの所へ行く乗換駅の大曽根を通り過ぎ、高蔵寺、中津川ときてその次が木曽福島だった。名古屋から1時間半ほどだろうか。中津川を過ぎると辺りで景色が雪交じりになった。山が深くなってくるのだ。車窓から雪山がみえたので携帯で写真を撮ってしまった。
この日は、晴れて穏やかだったが雪をかぶった山峰に驚いた。やがて木曽福島駅についた。駅には手塚さんの姿が。10数年振りか。懐かしい。「青山さん、あまり変わっていないようですね」と、声をかけられた。「いやー、随分と変わりましたよ」。駅から車で彼の工房へ。「実は、ここには5年ほど前に工房を移したのです」、という。自宅は前の木曽の楢川村だそうだ。話しているうちにもう工房だ。5分くらいかな。なんとなく風情のあるところで、「ここは何かの街道でしたか」と聞くと、「中山道ですよ」と手塚さん。
またまた、写真を撮ってしまった。画面中央に杭があって“中山道”の文字がみえる。「ここから5分で関所跡もあります」・・・・この写真には雪が映っていないが、聞くと今日の朝までの雪が、晴れて日差しがでたので消えたという。何事も日ごろの行いが大事だ?

工房では奥さまが「青山さん、お久しぶりです」と懐かしそうに言われるのだ。何か、「父帰る」ではないが、遠い昔に家を出た放蕩親父が帰ってきたような場面だ。本当に懐かしい。我が家に帰ったような雰囲気で、外気は寒いが、温かな空気が充満していた。乞われるままに玄関を上がり、2階の作品展示場へと。改めて挨拶を交わし旧交を温めた。それぞれに身の上話をしばし交わし、工房内を案内してもらった。当時もそうだったが、今も工房内は塵一つ落ちていない。それぞれの場所がそれこそ凛とした様子だ。彼の仕事振りを垣間見るかのようだ。
そして、お昼の時刻になると「近所へ食べに行きましょう」と誘われた。実は、早めに戻ろうと思っていたのだが、「そうですか、参りましょう」と言ってしまった。本当に食べることには全く遠慮がない。戦争になり、敵方に捕えられ食事を与えられなかったりしたら、すべての秘密でも白状しそうな自分に時々いやになるのだが。
歩いてそれこそ2,3分のところに古民家風の家があり、そこがどうやら料理家になっているらしい。中へ入ると、本当に江戸時代に戻ったような雰囲気があり、畑仕事に使うような古道具類が壁を飾っていた。うす暗いその場所は多分民家の玄関だったところで、入った所は土間になっていた。「いらっしゃいませ」と奥からその古い設えには似つかない若い着物姿の女性が現れた。「お食事ですか」と聞かれ、手塚さんが「そうです、予約しています」と低い声で言うと、「ご予約ありますか」と聞かれた。再度「予約しました手塚です」と答えると、「お食事ですか」とまた聞いた。何度かやりとりしていると、さらに奥から中年の女性が「手塚さんですね、こちらへ」と我々を案内してくれた。お昼には少し早い時間だったのか突然現れた男性二人に驚かれたのかもしれない。それほどに世間知らずの“おぼこ”ともいうような、近頃の東京のあたりでは見かけない若い娘であった。
案内されたのは、一段上がった周囲に壁のある個室風のところで廊下側は縄のれんと衝立で仕切られた空間だった。その場所には民芸調の置物や壁掛けが装飾されていて、多分この木曽のものだろうと想像した。食事はすでに予約時に頼まれていたのだろう、次々に料理が運ばれてきた。どれも今調理したように湯気がたち、寒いところからの遠来の客を意識したものだった。手塚さんが予め頼んでおいたのであろうか。そこで聞いてみた、「ここはどうして福島というのでしょうか」。手塚さんは「え、気がつきませんでした、私も知らないのですが」と。この地は春慶塗の発祥の地と言われていたが、どこの産地でもおきているように、そうした伝統が廃れかかり、村の人に請われてここに工房を移したと彼は言う。そういえば、彼の漆は春慶塗の様子があったことを思い出した。さて料理はどれも美味しかったので、たちどころに食べてしまった。「早食いなもので」といつものように謝る自分だった。
食事が終わり、二人で工房へと戻った。戻ると、夫人が蜜柑を用意して待っていてくれた。それにコーヒーを。食べながら、飲みながら、酉福で漆作家を探していることを説明し彼のことを思い出し、これからの仕事の中で一緒にできることを相談した。それは酉福での展覧会であり、海外への出展だ。3月に予定している「宇宙のバラ」展のことも話し、新種のバラの発表会を兼ねた展示会に陶、磁、金属、ガラスなどの花入れを使うが漆のものがないと言った。言いながらふと工房の玄関にあった花入れを思い出した。
これは、もう5,6年ほど前になるだろうか、酉福のお客様のお宅を訪問した時にこの形の大きなものが玄関に置かれてあった。そうだ、これをバラ展に使えないだろうかと思い、彼に聞いてみた。「大丈夫ですよ、東京へ送りましょう」と言ってくれた。その言葉に感謝の意を表し、夫人にも幾重にもお礼を述べて、工房を後にしたのだった。懐かしさに加え、そう、何とも言えない温かな気持ちが心の中に広がっていた。「今日、思い切って木曽福島に来てよかった」と思った時に、はて何故福島なのかという興味が再び脳裏をよぎった。
帰ってからしばらくして、「関ヶ原」の後、芸備(広島)に入封した福島正則のことを思い出した。彼は、後に幕府から広島城の改築を理由に減封され信濃(長野県)へと移されたが、そこで最後を迎え福島家は断絶させられたという。もっとも子孫は幕府から三千石で旗本として家名は継続したらしいが。で、この福島正則の故事にちなみこの名前がここに残ったというのは私の一方的な推論だろうか。