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股旅(またたび)食べ物編
日本国内の多くの地域を歩きまわっていると、やはり東京では気がつかないことにも出合う。これがまた楽しいのだ。料理もその一つだ。訪れた地では時に食事に誘われたりする。夜の場合はお酒も頂戴する。地元の食材を使った料理は東京ではなかなか食べられないものばかりだ。

青森の郊外にある蕎麦屋は洒落た味だった。ゆで加減が丁度良く、もっともそのために一回にゆでる量に決まりがあるらしく、追加で頼むとしばしの時間がかかってしまう。

仙台の寿司屋では地元の魚を満喫。やはり魚は新鮮さが大事だ。寿司は新鮮な魚だから旨いというわけでもないが、ここの寿司は握りも良かった。一緒に行った人は値段にうるさい人だったので、一つ食べる度に幾らだと聞く。これには閉口した。いくら食べても幾らとは。

富山の酒蔵フレンチでは野菜や魚の取り合わせに興奮し馴染み客の一人に入れてもらった。地のものを料理するのは適切だ。食材に凝るあまりフランスからとりよせるような店もあるが、ここは地元に密着していて気持ちが良い。

金沢の日本料理家さんの繊細だが豪華な味は思い出しては涎が出てくる。ここも地のものを調理するが、魚の扱いが素晴らしい。ここは料理の味だけではなく、料理の組み合わせも季節を感じさせ、また仲居さんの客あしらいも非がなく気持ち良い。

長崎の鰻のスキ焼には驚いた。ご飯を何杯もお変りしたのが懐かしい。甘辛い味は九州そのものだ。その長崎の空港の到着ロビーにある“ちゃんぽん”店の味は私を引きつけてしまった。汁と具の絶妙な取り合わせが全体の味をひきあげているのだ。無理してでも長崎空港へ飛ぶようになった。

桑名の焼き蛤は言うまでもないが、神戸の中華街にある味も本当に旨かった。旨いというと、瀬戸の駅裏のうどん屋も捨てたものではない。駅というと、あの名古屋駅の新幹線ホームにある“カツサンド”を忘れるわけにはいかない。お昼に合わせて名古屋駅を出て、車内で食べる時の幸福感はなんともいえない。それでさらに三島駅での“アジ寿司”だ。これも買って車内で食べる。味のいいアジすし。

旅先の普通の場所で食べて美味しいものに出合うというのこそ、旅のだいご味であろうか。そうそう、もう一軒、大事なところを忘れていた。仙台郊外の秋保温泉にある秋保大滝の入り口にある蕎麦屋だ。冷たい水が売りだが、これにより蕎麦は適度にしまり、歯ごたえが増す。聞けば、ここの主人は山采とりの名人だそうで、取り立ての山采をさっと揚げて蕎麦と一緒に出すのだが、これが秀逸。しかし、何時もないのには困るのだが。

味は一期一会。今その時こそが大事だ。そこで一句、「味は今 至福の時ぞ、股旅の」

思い出すまま書いたが、一つ大事なところを思い出した。北海道の帯広郊外にあるジンギスカン料理店のビールと焼き肉は忘れられない。昼間から飲んで食べた。羊肉の味がまことに良く、肉らしい味なのだ。硬からず柔らか過ぎず、口の中でこなれる時に味が染み出るようなのだ。昼間の明るさにビールは良く似合う。ビールを飲むことで、口が清められ、次の肉片にはまた新鮮さを呼び込むきっかけになり、いくら食べても初めて口に持ってきたかの如くなのだ。ここにはお菓子の六花亭の運営する中札内美術村があり、村内に作家毎の美術館がいくつも点在しているが、それらを束ねる館長に友人が就任したのが去年の4月だった。学生時代からの古い友人で、もう40年ほどの付き合いだが、これは陣中見舞いに行かねばと親しい人を誘って帯広へ出向いた。その中札内美術村に小泉さんの美術館がある。帯広には今は亡き小泉淳作先生を訪ねたことも忘れられない思い出だ。
その想い出に、新しく、ジンギスカンが付け加えられ、さらに楽しくなったようだ。

そして私はこうした楽しみが多いので、“また旅”に出たいと思う今日この頃だ。
# by chateau_briand | 2012-05-18 11:49
股旅(またたび)地域の違い編
さて、前回は“お土産編”として「百味菜々」という本のお話をした。北は北海道から南は沖縄まで、いろいろな作家を訪ねたりする私だが、日本国内の多くの地域を歩きまわっていると、やはり東京では気がつかないことも目に入る。特に地元の人々との話の中から、思わぬことも耳にする。楽しいこともあるが、考えさせられることも多い。全国皆一緒ということはないようだ。それぞれ別々の土地柄と言うものもあるのだろう。東の笠間で焼かれている焼き物と、西の有田で焼かれている物とでは、同じ焼き物でも全くその仕様が違うように、それぞれの地域での特性というものがある。皆同じだったら面白くもない。違うから楽しいのだ。人間だってそうではないか。皆同じような人ばかりだったら、全く面白みがない。

そういえば、最初に有田を訪れた時のこと、ある陶芸家に会ったのだが、地元の人同士での会話にはついていけなかった。有田地方の方言でお互いに話しているので、私には何を話しているのか全く理解できなかった。まるで外国語を聞いているようだった。常滑の著名な陶芸家を訪れた時のことだ。美味しいお茶を淹れてもてなしていただいたのだが、お話の内容が地元の言葉でしゃべられたこともあり、最初は良く聞き取れなかった。特に最初のころはシカゴから戻ったばかりで、久しぶりの地方だったせいか、本当に耳慣れない言語だった。そのうち何回かお邪魔し、少しずつ慣れてきたのか、ようやくわかるようになった。で、お話の内容は、「最近、このあたりを歩く人も少なくなった、昔は道を行き交う人で溢れていたのだが、たまに見ると外国人しかいないね」と言われる。これは、街中に焼き物を求める人たちが大勢来ていたし、勿論陶芸家も数多いたのだが、近頃は陶芸家といっても外国から来た人が増えていることも事実だというような意味だった。常滑は海外ではかなり名前が通っていて、多くの外国人が学びに来ているのだ。そのうち、方言が英語ということにでもなってしまうかもしれない(笑)。九谷焼きの本場、小松でも、通りはほとんどシャッター通りになったとか。あの唐津でも、「僕らが小学校の時には一学年に三クラスあったけど、僕らの子供は一クラスになった」とか、「空き地が目につくようになった」とか、いろいろと聞かされた。

だから、地域ごとにそれぞれにあった政治というか行政があった方がしっくりするように思えてきた。そう考えると、最近の世の中を見ていると地方の中央への反発というのが目に止まるようになってきている。お上の決めたことに従わないというのは素晴らしいことだ。地方の実情も知らないところで地方のことが決められて、それに従うというのはもうそろそろ終わりにしたらどうか。まあ、どのような世の中でも、地方からの反乱で中央の政権が転覆することが、歴史上では普通のことになっていることを考え合わせると、日本もそういった時代に入り始めているのではないだろうか。群雄割拠の時代来る予感がする。

そして私は“また旅”に出たいと思う今日この頃だ。
# by chateau_briand | 2012-05-12 11:08
股旅(またたび)お土産編
“またたび”と、聞くとなにやら博徒が地方へ渡り歩く様子が浮かんでくる。音だけでは、“マタタビ”、猫の好きなものだ。しかし私は猫ではない。これはさておき、地方へ行くことが多い私だが、考えてみるとそうした博徒稼業のようでもある。北は北海道から南は沖縄まで、いろいろな作家を訪ねたりする。これは、有望な作家を求めての旅なのだ。行ってみないとわからないところもある。工房を見ないと実のところ、その作家の真の姿が見えないのだ。だから工房を訪問するのは大事な仕事となる。博徒も、私は博打をしないが、賭場を訪ねてというか、全国の賭場をめぐり、仕事?をしていたのだろうか、そういう意味で同じようなものかと思ったわけで、そういう道の専門家の人からはそうではないと言われるような気もするが、ともかくあちこち渡り歩くと言う意味で同じような感じがしたのだ。というわけで初めての場合は、手土産などを持参する。まあ、よろしくお世話になりますと、仁義をきるようなことでもある。これが難しい。茶菓子などが良いのかと思うが、土地によっては和菓子で有名だったりする。また、お酒も、その地の旨い酒があるので、うかつには持って行けない。何にしようかと迷うところだ。といって陶磁器などは当然のこと手土産にはならない。手土産一つでもおろそかにできない。私は、時に本を選ぶ。それもうちで出版したものを。例えば、「百味菜々」とかだ。これは喜ばれる一冊だ。
海外でも受ける。ルーシー・リーとか魯山人の器に美味しい料理が盛られている貴重な書籍だが、これを出版するようになったのは全くの偶然だった。ギャラリーを開いたころに、展覧会の案内状用の写真をお願いしていた写真家の方から、「このような本があって、版元の都合で絶版になるが、酉福さんで出版を継続しては」とのお話を頂戴した。1996年か7年だったろうか。見ると素晴らしい出版物だった。その昔出版の仕事をしていたこともあったので引き受けることにした。縁があったのだろう、有難く興味深いお話であった。いまでも全国から注文が続く。
こうして書いていると、また旅へ出たいと思う今日この頃である。
# by chateau_briand | 2012-05-08 11:04
桜みち 青そら染めし 桜さく
いつもギャラリーへ歩いて行っていますが、今日(4月7日)は、4月としては少し寒い朝でした。寒い時には歩くのに躊躇うのですが、あまりに良いお天気で、それに桜も満開とか聞きましたので思い切って歩きました。でも、いつもは青山通りの左側の歩道を歩くのですが、そこは日当たりが良くないので、右側の赤坂ご用地側を歩いたのです。すると、一丁目の交差点の近くに差し掛かると、中国人観光客風の二人連れが、ご用地の土手に咲いている蒲公英を指差しながら何か話合っていました。ふと、その二人に目を止め、上を見るとなんと桜が満開。思わず写真を撮りました。それがこの写真です。

# by chateau_briand | 2012-04-07 11:17
旅の失敗あれこれ
旅に出て、忘れられない出来事というものはいくつもある。良い思い出より、悪い思い出のほうがあとで懐かしくなる、というより忘れられない楽しみな話になるのが不思議だ。

私が、初めて海外へ旅立ったのは、1970年、NYでの短期駐在の時。羽田からアラスカのアンカレッジ経由でNYへ。そのアンカレッジでアメリカ入国審査があり、荷物を受け取ってから税関検査へと進んだ。実は、アメリカへの手土産として、当時出たばかりの携帯ラジオをかなりの数持っていた。当然、係官からこれは何だと聞かれたらしく、らしくというのは全く英語を聞きとれず、何を言っているのかは良く分からなかった。日本人旅行者の数も少なく、その係官はかなり辛抱強く、色々と言い換えて私に聞いてくれたのだが、私はそれこそ全く理解できず、そのうち、私がパリへ行くとか何とか言うと、「そうか、パリへ持っていくのか」と自分で納得したらしく、わたしが訳も解らず、「Yes」と返事すると、そのまま通してくれた。 お土産品を没収されたり、税金でも徴収されていたら大ごとだった。やれやれ、今でも思い出して苦笑。

そのNYでの6カ月ほどの短期駐在からの帰りは、せっかくだからとハワイに寄って羽田へ。荷物を受け取り久しぶりの我が家に着き、旅行鞄を開けると全く見知らぬ中味がそこに。自分の鞄を持ってきたつもりが別の人のものを間違って持ってきてしまったのだ。自分の鞄を忘れるとは。勿論、直ぐに空港へ引き返し、鞄を取り替えたが、係の人に説教されてしまった。注意一秒。

鞄と言うとNY帰国後、仕事でマレーシアへ旅行した時のこと、空港で迎えの人が気を利かし税関を裏口から通してくれた。そのころの東南アジア諸国では良くあることで、当然その人が私の鞄を運んでくれるものと思っていて、そのまま車に乗り込みホテルへ。ホテルに着いてから自分の鞄がまだ空港に置いてあることを知らされてもう、びっくりだった。いやはや、何事も確認と点検だ。鞄はそれから空港へ受取りに行ったのだが、時間を無駄にしてしまった。何しろ、熱い時の熱い所で頭もぼんやりしたのかも。

時間といえば、まだベトナム戦争継続中のころ、やはり仕事でベトナムへ。関係先の社長の経営する工場を訪問した。従業員が集まり、私が取材のつもりで、「休みは何をされていますか」と質問をした。「・・・・・・」、「・・・・・・・」。返事が返ってこない。戦時下のこの地では、休みという感覚も、休みだから何かするということは有り得なかったのだ。このような状況を把握しないで質問をすること自体が現地のことを知らないことだと深く反省した。彼の地と我が国との大きな差を実感し、自らの到らなさを知らされたのだった。なお、私がサイゴンから離れた3ヶ月後に北の攻撃でサイゴンは陥落したことを新聞で知った。戦争の真っただ中にいたということは今でも忘れられない。その時の現地工場の社長さんは、その後サイゴンを脱出しボートピープルとなって日本へ流れ着いたという噂を聞いたが、本当に栄枯盛衰、悲しい話でもある。

そのサイゴンから台湾の台北に着いた時のこと、機内で食べた料理が問題だったか、ホテルに着くころには激しい下痢に襲われた。台湾の政府関係の人が迎えに来ていてホテルまで案内され、「今晩食事でも」と誘ってくれたが、これではちょっと行けないと「すみません、用があるものですから」とお断りした。それでもしばらくしてから、「夜一杯どうですか」とその方から電話がかかってきた。それもお断りすると、「それでは明日の朝食を一緒に」と言われた。やれやれと思いながらも、あまり断るのも失礼かなと、「では、明日の朝に」と電話を置いたのだった。その夜はほとんどトイレにいて寝るどころではなく、まさに用があったわけで、これでは朝飯だって食べられそうもないような状態だった。何度も誘われ断るのも日台関係にひびがはいってはと、少し考えすぎかと思ったが、朝食前に日本から持ってきた“正露丸”をほぼ一瓶飲み下し、レストランへ行った。正露丸の効力もあったのか、無事朝飯を食べ終えた。備えあれば憂いなし。

# by chateau_briand | 2012-04-06 11:13
桑名の焼き蛤
名古屋のボストン美術館で「ファッション展」があり、その開会式に行った。せっかくの名古屋なので、桑名の森一蔵さんに会うこととした。森さんは酉福ギャラリーの最初の個展作家だった。もう20年ほど前になるのだが。桑名は名古屋から近鉄特急で15分のところにある。

桑名は東海道の宿場で伊勢湾を渡る船の船着き場として有名だが、そこの焼き蛤はこれまた有名で江戸時代から歌にも詠まれているほどだ。その桑名に舟津家という船宿があった。泉鏡花の小説にも登場し、明治以降、多くの文人にも愛されていた宿であった。何が良いのかと言うと、舟津家のある場所は、長良川、木曽川、揖斐川という三つの川の合流地点で、川幅も広く、中国大陸の「長江」に雰囲気が似ていることにあった。実際にこの宿から眺めてみる景色は、ゆったりとした水の流れが柔らかな水面を作り、遠くに霞む対岸がかすかに見え隠れし、私は行ったことがないのだが、まさに長江かなという雰囲気だ。この情景が文人に好まれたのもわかる。宿の佇まいもそれこそ、いまだに明治のころを思い起こさせるような建物で、廊下や階段を歩くと、ふと、時間を越えて昔の思い出に浸れるかのような感がある。それに蛤が加わる。ここでは、座敷で蛤を焼いてくれた。料理人が少し横長な四角い箱を運び入れ、その箱の中に炭火があり、炭火の上には10個ほどの穴が空けられている鉄板が置かれた。料理人は、一緒に持ってきた蛤の蝶つがいを外してから穴の上に乗せていく。炭火に焼かれた蛤の匂いが部屋に満ちあふれたころに、一つ二つと焼け具合を見ながら皿に盛り客に出すのだ。熱く焼けた蛤は貝の蓋が大きく開くことがないので、中の汁もこぼれずに自然な味を楽しめる。勿論、醤油とかポン酢とかの味付けは全くする必要がない。地の海から上がったばかりの蛤のもつ味そのものを食べるのだ。

私は、ここの焼き蛤が好きだった。思い出しながらこの一節を書いてみた。書きながら、口の中は蛤汁で溢れるような感じだった。懐かしい。懐かしいというのは、もう、ここでは焼き蛤は食べられないのだ。一昨年、もう料理を出さないようになり、いまではその建物を結婚式場として使っているという。ああ。私がこの宿に初めて行ったのは、もう40年ほど前になる。当時、編集の仕事をしていたが、その雑誌の仕事で画家の中川一政さんを鈴鹿にある“澄懐堂文庫”にお連れすることになり、時間の関係もあり、前日から桑名で一泊という予定を組んだ。その宿にこの舟津家を選んだのだった。これは多分私の独断だったと思うが。真鶴に中川さんを迎えに行き、二人して桑名に入った。宿に「蛤鍋を」と注文しておいたが、「今、鍋はしていません」と冷たい返事であった。蛤の季節ではなかったのだ。それでも、舟津家に泊まったことはその後長く私の記憶にとどまっていたのだ。だから、長いアメリカ駐在を終え、日本に戻り、久しぶりに桑名で焼き蛤をたべた時にはいたく感激し、その後、用を見つけては桑名に行ったものだった。

今回、久しぶりに森さんに会うので、この機会に蛤情報を仕入れようと思った。「森さん、舟津家はもうないのですが、別のところで焼き蛤を食べられるところを紹介してもらえないでしょうか、できれば一緒にどうですか」と電話をいれたのだ。森さんの紹介で、一軒の店に予約を入れてもらった。予約を入れたのだが、どのような焼き蛤なのかを知りたかった。そこでその店へ電話をかけた。「お宅では、どのような蛤をどのように焼くのか」と聞いた。初めてのお店だったが、思い切って聞いてみた。私のような不躾な客の質問にも拘わらず、先方は快く何でも話しをしてくれた。これまでの自分の蛤体験を基に自分なりの希望を述べたのだ。その受け答えに満足した私は、大きな期待をもって桑名へ赴いたのだ。

その夜、桑名駅からタクシーにのり、目指すお店に向かった。走ること約5分、そのお店の門に着いた。門から玄関口までは植え込みに石畳みといった風情で、何やら老舗のような構えだった。玄関を開けると鉢植えの蘭が見渡す限りに並べられていた。「これは」と中居さんに尋ねると、「最近、新装開店しましたので」と。そうか、代替わりしたと言っていたなと、電話でのやりとりを思い出した。案内されるままに2階の座敷へ。6畳ほどに床の間にお軸とお花が。中央に座卓が置かれていた。やがて森さんがこられた。森さんには、今夜の献立について簡単に説明し、蛤鍋は無いとお伝えした。電話の内容からは、鍋はあまり得意ではないような様子で、お店の方もできれば無しでということでしたので、と径依を説明しておいた。森さんも、鍋は別の店が有名だが、そこの予約が取れなくてとのことだった。まあ、初めての店だし、あまり期待しない方が良いというので意見が一致した。

さて、まず付き出しがビールと一緒に。店の女将が顔を出した。ビールの後は熱燗を頼み、やがて造りが並べられた。付き出しも造りも期待以上の味だった。これはもしかして“丸”かもと思っていた。その女将が小ぶりな焼き蛤一個を乗せたお皿を御盆で運んできた。これは、これは、丁度良い大きさではないかと早速皿を手に取り、貝の蓋を開ける。そこにふくよかな香りと共に、白い貝の身から汁が溢れ出るように見えた。これは旨そうだと、口にその身を放り込んだ。旨い、旨い、旨い。懐かしい焼き蛤に出合えた。貝の旨みが口中に広がった。食べ終わると、さらに新しい一個が焼き上がったばかりに運ばれた。それが終わるとさらにもう一個。全部で6個を食べたのだ。満足したことは言うまでもない。座敷で焼かないので、焼き立てを食べたいとお店に言っておいたのだが、忠実にこのことを守ってくれたお店に乾杯し、次回の訪問を約束したのであった。めでたし。
# by chateau_briand | 2012-03-21 14:15
音の旅
ある夜、音楽会へ行った。ベルギー音楽家の弦楽四重奏だ。会場に入り、席に着き、開演を待った。舞台の袖から男性3人と女性一人が登場した。ヴァイオリン二人、ヴィオラとチェロだ。音合わせが終わると、まず、第一ヴァイオリン奏者が最初に弦を弾いた。その音が私の耳に届くと、たちまち自分の脳に響き、私は音の世界へと引き入れられた。瞬時に、私の理性を抑え、感性の動くままにされてしまった。このような体験は生まれてから、おそらく初めてのことだと思う。いつもは、こうした音楽会に出席しても冷めた感覚しか持ちえず、つまりは退屈するだけだった。この夜は違った。素晴らしかった。楽しかった。なかでもその音には心動かされた。音に吸い込まれ、別次元の世界へ行っているようだった。音楽家の奏でる調べが綾なす空間に遊ぶがごとくとはこのことなのだろうか。音楽家のことも、その楽曲のことも何も知らない。ただ、その場に居て、その音を聞いただけだった。

音は波長だ。波長に乗って情報が送られる。すなわち、その音の作り手は自らの意思をのせて第三者へ伝えることができる。この夜、私はこの音楽の作り手、作曲家と演奏家の意思、すなわち伝えたいことを受け取ることができたのだと思う。目の前に音に合わせて景色が浮かんだ。情景がまさに手に取るように見ている自分がいたのだ。その情景は作曲家が見ていた景色に違いない。彼の感動を伝える映像が送られたのだ。音の波が映像を送ることが出来るのであれば、言葉でもそれが出来て不思議ではない、と思った。

言葉は意味を伝える為の物としてだけ存在するものではない。意味を伝えつつ、その場の情景をも併せて伝えることのできるものではなかろうか。たとえば、俳句だ。俳句は言葉で景色を表現している。和歌もそうだ。勿論、フランス語や英語の詩もそうだ。作り手の感動が音になり文字になり届けられる。であれば、どのような言語であれ、その音から意味は分らなくても感動は伝えられるのだ。日本語で書かれた俳句でも、その音を聞いた人は等しくその感動を共有できるにちがいない。素晴らしいことではないか。

その音楽会のあと、そうと案内状を見てみた。作曲家や楽曲の紹介、あわせて演奏家の略歴なども掲載されていた。遅ればせながら読んでみた。読んでみると自分の受けた事柄を裏付けするような記事もあり、自分のあの感動は消えることはなく、それどころか感動は感激へと変わり、つまり私のこの体験がさらに深い感銘となって脳裏に刻まれたようだ。
# by chateau_briand | 2012-03-01 15:07
木曽への道
「木曽福島?」と聞き返した。はて木曽に福島があったのか。分からなかった。早速調べると、御嶽山の近くらしい。長野県木曽郡にあり木曽福島町となっている。もともと福島村だったそうだ。何故、福島村というのかは判明しなかった。いずれにせよ、中央線の木曽福島駅辺りだ。そこへ行くには新宿から“あずさ”に乗って塩尻へ行き、そこで乗り換えて木曽福島駅という道筋と、新幹線で東京から名古屋へ、名古屋で“しなの”に乗り換えて木曽福島駅という行き方がある。名古屋経由のほうが10分ほど早いが値段は少し高めだ。今回は名古屋経由で行くこととした。1月の終わりごろだっただろうか。

ところで、なぜ木曽福島へ行くのかと言うと、漆作家の手塚さんに会うためなのだ。手塚さんはそれこそ酉福開業ごろにお付き合いがあった作家だが、2回ほど個展を開催したあと、事情があり、お付き合いが無くなっていた。それから10数年の時がたち、そういった事情も消え去り、去年の年の瀬のころ、ふとしたことで彼のことを思い出し電話を入れてみた。「青山です、お久しぶりです、お元気ですか」、と話し始めると「あ、懐かしいですね、久しぶりです」と覚えてくれていた。「一度おじゃましたいのですが」、「どうぞ、今工房は木曽福島に在ります」とのことだった。以前、彼の工房兼自宅のある楢川村を何度か訪問したことがあった。漆作家は各地にいるが、どうも加飾が過ぎたものが多く、自分の好みとは少し違うものだった。手塚さんの漆はその加飾がなく、本当に塗師の仕事が中心で前から好感を持っていた作家の一人だったのだ。

で、名古屋から特急にのり、中央本線を行くと、瀬戸の長江重和さんの所へ行く乗換駅の大曽根を通り過ぎ、高蔵寺、中津川ときてその次が木曽福島だった。名古屋から1時間半ほどだろうか。中津川を過ぎると辺りで景色が雪交じりになった。山が深くなってくるのだ。車窓から雪山がみえたので携帯で写真を撮ってしまった。

この日は、晴れて穏やかだったが雪をかぶった山峰に驚いた。やがて木曽福島駅についた。駅には手塚さんの姿が。10数年振りか。懐かしい。「青山さん、あまり変わっていないようですね」と、声をかけられた。「いやー、随分と変わりましたよ」。駅から車で彼の工房へ。「実は、ここには5年ほど前に工房を移したのです」、という。自宅は前の木曽の楢川村だそうだ。話しているうちにもう工房だ。5分くらいかな。なんとなく風情のあるところで、「ここは何かの街道でしたか」と聞くと、「中山道ですよ」と手塚さん。

またまた、写真を撮ってしまった。画面中央に杭があって“中山道”の文字がみえる。「ここから5分で関所跡もあります」・・・・この写真には雪が映っていないが、聞くと今日の朝までの雪が、晴れて日差しがでたので消えたという。何事も日ごろの行いが大事だ?

工房では奥さまが「青山さん、お久しぶりです」と懐かしそうに言われるのだ。何か、「父帰る」ではないが、遠い昔に家を出た放蕩親父が帰ってきたような場面だ。本当に懐かしい。我が家に帰ったような雰囲気で、外気は寒いが、温かな空気が充満していた。乞われるままに玄関を上がり、2階の作品展示場へと。改めて挨拶を交わし旧交を温めた。それぞれに身の上話をしばし交わし、工房内を案内してもらった。当時もそうだったが、今も工房内は塵一つ落ちていない。それぞれの場所がそれこそ凛とした様子だ。彼の仕事振りを垣間見るかのようだ。

そして、お昼の時刻になると「近所へ食べに行きましょう」と誘われた。実は、早めに戻ろうと思っていたのだが、「そうですか、参りましょう」と言ってしまった。本当に食べることには全く遠慮がない。戦争になり、敵方に捕えられ食事を与えられなかったりしたら、すべての秘密でも白状しそうな自分に時々いやになるのだが。

歩いてそれこそ2,3分のところに古民家風の家があり、そこがどうやら料理家になっているらしい。中へ入ると、本当に江戸時代に戻ったような雰囲気があり、畑仕事に使うような古道具類が壁を飾っていた。うす暗いその場所は多分民家の玄関だったところで、入った所は土間になっていた。「いらっしゃいませ」と奥からその古い設えには似つかない若い着物姿の女性が現れた。「お食事ですか」と聞かれ、手塚さんが「そうです、予約しています」と低い声で言うと、「ご予約ありますか」と聞かれた。再度「予約しました手塚です」と答えると、「お食事ですか」とまた聞いた。何度かやりとりしていると、さらに奥から中年の女性が「手塚さんですね、こちらへ」と我々を案内してくれた。お昼には少し早い時間だったのか突然現れた男性二人に驚かれたのかもしれない。それほどに世間知らずの“おぼこ”ともいうような、近頃の東京のあたりでは見かけない若い娘であった。

案内されたのは、一段上がった周囲に壁のある個室風のところで廊下側は縄のれんと衝立で仕切られた空間だった。その場所には民芸調の置物や壁掛けが装飾されていて、多分この木曽のものだろうと想像した。食事はすでに予約時に頼まれていたのだろう、次々に料理が運ばれてきた。どれも今調理したように湯気がたち、寒いところからの遠来の客を意識したものだった。手塚さんが予め頼んでおいたのであろうか。そこで聞いてみた、「ここはどうして福島というのでしょうか」。手塚さんは「え、気がつきませんでした、私も知らないのですが」と。この地は春慶塗の発祥の地と言われていたが、どこの産地でもおきているように、そうした伝統が廃れかかり、村の人に請われてここに工房を移したと彼は言う。そういえば、彼の漆は春慶塗の様子があったことを思い出した。さて料理はどれも美味しかったので、たちどころに食べてしまった。「早食いなもので」といつものように謝る自分だった。

食事が終わり、二人で工房へと戻った。戻ると、夫人が蜜柑を用意して待っていてくれた。それにコーヒーを。食べながら、飲みながら、酉福で漆作家を探していることを説明し彼のことを思い出し、これからの仕事の中で一緒にできることを相談した。それは酉福での展覧会であり、海外への出展だ。3月に予定している「宇宙のバラ」展のことも話し、新種のバラの発表会を兼ねた展示会に陶、磁、金属、ガラスなどの花入れを使うが漆のものがないと言った。言いながらふと工房の玄関にあった花入れを思い出した。


これは、もう5,6年ほど前になるだろうか、酉福のお客様のお宅を訪問した時にこの形の大きなものが玄関に置かれてあった。そうだ、これをバラ展に使えないだろうかと思い、彼に聞いてみた。「大丈夫ですよ、東京へ送りましょう」と言ってくれた。その言葉に感謝の意を表し、夫人にも幾重にもお礼を述べて、工房を後にしたのだった。懐かしさに加え、そう、何とも言えない温かな気持ちが心の中に広がっていた。「今日、思い切って木曽福島に来てよかった」と思った時に、はて何故福島なのかという興味が再び脳裏をよぎった。

帰ってからしばらくして、「関ヶ原」の後、芸備(広島)に入封した福島正則のことを思い出した。彼は、後に幕府から広島城の改築を理由に減封され信濃(長野県)へと移されたが、そこで最後を迎え福島家は断絶させられたという。もっとも子孫は幕府から三千石で旗本として家名は継続したらしいが。で、この福島正則の故事にちなみこの名前がここに残ったというのは私の一方的な推論だろうか。
# by chateau_briand | 2012-02-18 13:24
柔の道
旅は道を歩く、が歩くところが道でもある。毎日歩いているが、体重は変化しない。上がり、そして下がる。この繰り返しだ。もう3カ月ほどになるが、おおよそ2キロの範囲で上下している。歩いても、歩かなくても、お酒を飲んでも、飲まなくても大きな変化はない。本当に道は険しい。でも、体重に気をつけているからこそ、大きな変化もなく毎日を過ごしているのかもしれない。と思うと気を抜けない。続けることが大事だ。継続は力なりとは良く言ったものだ。

私は、これまで色々なことを体験したが、なかでも「柔道」は好きな運動の一つだ。柔の道もまた、私にとっては一つの旅なのだ。切掛けは中学のころ、ラジオであの巨人軍の川上哲治監督の放送を聞いたことだった。それは、「ある時、タクシーを乗っていた時、事故に出合い、とっさに身をひるがえし難を逃れたことがあったが、無意識に柔道の受け身を取っていたことが良かったようだ」と川上さんは話していた。そうか柔道か、習ってみようと思った。直ぐに講道館の少年部に入会した。当時、講道館は春日町(東京都文京区)にあった。少年部は小学生から中学生までで、当然私は初心者として指導を受けた。最初は受け身であった。週に何回か通いながら受け身を学んだ。やがて立ち技を、それから寝技を習った。それからしばらくして先生と乱取りに入った。乱取りといっても先生が技をかけるので主に投げられるのだ。散々投げられて受け身を会得したように覚えた。すると、先生に技をかけることとなる。私は背が低いので背負い投げが向いていると思われるようだが、背負いは相手の懐に飛び込まなくてはならず、なんとなくいやで、体落としが好きになった。これは手技の一つで、身体を密着させずに掛けるので、そうした技の雰囲気が好きだったのかもしれない。大体が天の邪鬼な性格なのだ。

講道館での柔道は結構楽しく、寒稽古や、暑中稽古にも参加した。半年ほどたつと、少しづつ同じ少年部の仲間と乱取りをするようになってきた。一人、同じ年かっこうだが、私より少し前から稽古に来ている少年と良く二人で乱取りをするようになった。彼は既に色帯をつけていて、少年部だから黒ではなく茶色だったか、多分1級とか2級で、かなり強かった。でも彼と乱取りをすると、不思議に力が湧き、身体も自然に動き、互角の勝負だった。講道館の大道場に私が入るとすぐに、彼の目に着き、乱取りを申し込まれだ。時には黒帯の大先輩とも稽古するが、彼との投げつ、投げられつつの乱取りは楽しい稽古だったのを今でも良く覚えている。やがて、高校に入学し、迷わず柔道部へ入部した。入部してから新人、30名ほどいただろうか、全員で受け身をさせられた。その受け身を見て先輩が判断し一般の稽古に入るものと受け身を続けるものを区別したのだ。受け身が出来ない物は、完全に分かれて受け身を習得するまで一般の稽古は出来なかった。私は、講道館で受け身は修得しておいたので、直ぐに先輩に交じり乱取りをした。柔道ではこの受け身が大事だ。受け身が出来なければ怪我につながりかねない。そこは、柔道部の先輩もさすがに良くわきまえていたのだ。

もっとも毎日の稽古では、まず十分に柔軟体操をし、皆でかなりの時間、受け身を繰りかえし、乱取りへと進む。この乱取りでは、部の責任者、主将が元立ちを数名指名し、その元立ちに部員が代わる代わる稽古を申し込むようになっていた。相撲部屋の稽古風景にも似ているが、元立ちは主将の次の指名があるまで何人もの稽古相手と乱取りを続けるのだ。古参部員とか中堅で期待されている者が指名される。新人はこの元立ちには直ぐになれないから、自分から率先して相手に挑まなければならない。数人の部員が一人終わった元立ちに飛びかかるように相手をしようと突進するのだ。早く行かないと稽古相手は誰もいないということになる。こういった所を先輩はみていて、やがて新人でも元立ちに指名されることとなる。稽古量が増すのはいうまでもない。私は決して強い選手とは言えないのだが、幸い3年間、毎日のように授業後稽古をし、夏の合宿、これは地方の道場や他校との合同稽古だが、冬の寒稽古、これは冬休みに朝6時から道場に集まり稽古したが、大きな怪我もせず、無事卒業した。私以外にも大きな怪我や事故といったものは無かったように思う。これも稽古の仕方が合理的だったからではないだろうか。伝統が受け継がれているのだろうか。確か、私が講道館に入ったころ、少年部で最初に習ったのは勿論受け身だったが、同時に講道館柔道の創始者である加納治五郎先生の「精力善用自他共栄」という心構えをまず教わったのが印象的であった。相手を倒すというより、心の持ち方というか、身を守るとか、攻撃的なところは少なかったようだ。試合も体重別ではなかったし、オリンピックの種目でもなかった。こうした心構えを教わったことは本当に今でも感謝している。

ところで聞くところによれば、この4月から我が国の中学か高校から柔道とダンスが必須科目になるとかで喧々諤々の論争になっているらしい。特に柔道は、これまでの学校の授業でけが人が多く出ているらしい。どのような授業をしているのだろうか。大いに疑問である。私のつたない経験からも、受け身をしっかりと身に着ければ怪我をすることはないと思われるのだが。何のための柔道授業なのであろうか。日本の伝統を教える為なのであろうか。それとも、早くから学ばせ、強い選手を養成するためなのであろうか。初心者に直ぐに乱取りなどさせれば怪我をしない方が不思議だ。先生方で柔道の経験をお持ちの方がどの程度いるのだろうか。柔道は、柔の道で、勝つための技ではなく、心を磨く技というところから道になっているのだ。道を踏み外さない様にしてもらいたいものだ。
# by chateau_briand | 2012-02-08 10:50
雪道
雪が降った。翌日は景色が一変。歩道に雪が。赤坂見附辺りでは雪は少なかったが、青山への坂を登り始めると、雪が深くなっていった。写真は一丁目の交差点の手前の街路樹だ。やはり標高が見附より高いのだ。風も強くなってきた。寒い。寒いと言えば、パリも寒かった。一週間ばかりパリに所用があり出かけていた。街を歩いたが、風が強かった。仕事が終わり、東京の羽田空港に帰り着いた時は雨が降っていた。機内放送でやがて霙に変るといわれていたが、午後にはもう雪になっていたのだ。

寒いパリと言えば、40年前に初めてパリを訪れた時も寒かったのを思い出した。1972年の冬、12月だった。その年の春に突然NY行きを命じられて、それこそ夏物だけ持って彼の地へ向かった。羽田空港からの旅たちだった。春から夏、そして冬を迎え、NYも寒くなった。その寒いNYからパリのオルリー空港に降り立った。コートもなく夏の上着を着ていた。何故コートも無かったかというと、当時は私の身長に見合ったコートを探しても見つからなかったのだ。それに、クレジットカードもなく、現金も無かったのだ。なにしろ外貨持ち出し制限のある時代だった。1ドル360円の時代だ。外貨持ち出し制限額は確か一人3000ドル、当時の換算レートで100万ほどだった。パリに着いたころには持ち金も底をつきそうで、懐もさらに寒かった。それでもパリは燃えていたというとかっこいいが、寒いが寒さを感じなかった。街を歩き、ビストロ風のところで簡単な食事をした。どれも美味しかった。何が嬉しかったかと言うと、フランス語を使えるのが嬉しかった。なにしろNYではあのいやな英語を話していたからだ。パリはその意味では楽しい街、だから寒さを感じなかったのだ。ホテルは、左岸のロワイヤル橋近くにあった小さいところで、なんでもあのフランソワーズ・サガンの定宿だったホテルだったとか。小さいけど趣のあるホテルだった。サガンの泊まる左岸のホテルか。ホテルの前にパン屋さんがあって、毎朝、パンの焼ける匂いが漂ってくるような所だ。お金はなかったが、そのパンの焼ける香りにもうれしくなるような楽しい滞在だった。

ところが、滞在中のある日のこと、パリで知り合いにあった。東京のギャラリーに紹介されたその人は、パリでギャラリーを経営されているユダヤ系の人で、勿論大金持ちだ。ギャラリーに訪ねると、「いくらいるのだ」と聞く。「えー」と答えられない私に、「これを持って行け」と、彼の後ろにある金庫を開けて、無造作に現金の束を掴みとり私へ渡したのだ。当時のフランスはまだフランで、500フラン札が一番高額の紙幣だったが、その500フラン札の束が私の前に置かれた。確か1フラン50円だったかな。500フランは25000円相当になる。このフランの札束は多分100万ほど、いやもっと有ったのかもしれないが、いずれにせよ大金だった。私は数えずにそのまま「メルシー」と持って帰った。ホテルに歩いて帰るのだが、途中に洋服屋があり、コートが目についた。洋服屋に入り、コートを着てみると私に丁度良い寸法だった。NYでは寸法が合わなかったが、パリで身の丈に合うものがあることが分かった。直ぐにそのコートを貰ったばかりのフランで買い、そのまま来て帰った。温かかった。嬉しくなった。まるで別人のようなお洒落な装いをしている感じだ。いまでもそのコートのことは忘れない。ここに当時の写真があるので紹介したい。


寒さにからむ昔の思いでだが実に懐かしい。実は、そのパリで数週間すごし、お金もあることだしと、そのままスペインへも行ってみたのだ。スペインのグラナダにアテネフランセのころの友人が留学していたからだ。その友を訪ねた。この旅についてはまたの機会にご紹介しよう。

追記:この”もらった”フランは後に東京のギャラリーを通して全額返金しました。
# by chateau_briand | 2012-02-02 15:49
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